当研究会会員の声をご紹介します。
当研究会20周年の時に寄せられた学習されている方の声の一部です。
感謝―かけがえのない時間の中で
二十周年、誠におめでとうございます。
今日までには、先生方、スタッフの方々の、様々なご苦労があったことと拝察いたします。
二十周年とお伺いし、私にとって研究会はどんな存在なのか、とても一言で表せるものではありませんが、人生になくてはならない、かけがえのない宝だと思っております。何度も助けていただき、また、いただいたご縁の中で、夢を見つけることができました。感謝の念で胸がいっぱいです。
学べば学ぶほど、何とも表現しがたい難しさを感じ、時にできない自分、わからない自分と向き合うのが辛く、悩みの中に入り込んでしまうこともありますが、目指すものがある以上、学び続けることに迷いはありません。
先生方からいただくものを大切に育て、共に学ぶ皆さんにいろいろな力をいただきながら、自分をつくっていきたいと思います。
HSさん

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20周年に寄せて
カウンセリング研究会との出合いは、たぶん‘94年頃だと思う。15年も続いているのは、日常生活と結びつくところがたくさんあるからだろう。最初は、何が何だかわからないまま不思議な魅力を感じていた。核家族で子供が3人、まわりに話しをする大人がほとんどいない環境にいたので、何しろだれでもよいから“子供以外の話題の会話がしたい”という事も通い続ける動機になっていたと思う。
「話を聴く」ということがどういう事なのかも意識したことなく、受容、共感、自己一致はいつまでも字面のみの理解に止まった。数年が過ぎる頃“子育ての場面で使える大切なもの”という感覚が芽生えて、やめるにやめられないものとなっていった。具体的には相手の目線になるということが、あたかもその人が感じる様に感じる為の方法の1つだと思えるようになったが、そう簡単に会得できる事ではない。
例えば演者が役づくりをしたり、それを演技として体現する時も似た様な作業をするのだろうか?と思いながらドラマや映画を見た時期もあった。“共感=その人になる”という事ではないが、近いものを感じとれた所もあると思っている。
1つ1つ具体的に体感する工夫を重ねながら、現在に至っている。
TSさん

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少しだけ有頂天な私
此処、1,2日間、何を書こうかなぁ〜思案に暮れて居る、握った鉛筆がそれ、急げと追いたてる様に指先でクルクルと踊っている。う〜ん、見つからず、思い付かない焦りから一寸苦しくイライラして来た・・・。そこで、大きく深呼吸をしてみた。
あっ!そうだ、この事をこの思いを述べてみよう。些細な事かも知れないが、それは先日の事、学習会の仲間から「今のMさんて、入った時に比べて変わったよね。」と言われた「そうですかぁ〜」と返しつつ、正直言ってどんな所がどんな風に変わったのかなぁ〜と思った。でも、その方のニュアンスから察するに良い方に変わったんだと感じた。悪い気はしない、いや!むしろ喜べる事なのだ、特別な意識も自覚も、はっきりとは分からないものの、少なくとも、その方には前とは変われた自分を感じて居るんだ。良かった。何か、ちょっと得した気分で嬉しかった。
これも、今迄6年間に亘り学習会に参加して来て、カウンセリング等の成せるお陰なのだと心に痛感し感謝した。
でも、どんな所が、どんな風に変わったのか、ちょっぴり気にはなるが、今は敢て求めはしない自分が居る。何故なら、今の自分を維持して行こうと決めたから
今日の今、ここで私の気持ちでした。
SMさん

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カウンセリングを学んで感じること
静岡カウンセリング研究会に入会して学ばせて頂いてから6年程過ぎました。以前は人に対して怯え不安感、恐怖、緊張が強く毎日が精神的緊張感で疲れていました。現在年令が増したので肉体的疲労感はありますが以前よりは心が安定しています。まだまだ人とのかかわりは下手です。もっともっと自分をアピールできればと思う此の頃です。学習会の学が人生において意義あるもの、心の安定感を産み、ありのままの自分で居ることへの心地良さを感じる。又自分の思いを如何に相手に伝えるかによっても相手の反応が違ってくることを知る。
子育て支援の電話相談にかかわらせて頂き感じることは、聴くことの難しさです。黙って聴いているのでは、聴いてもらっている感がなく伝わらない。電話の声を後で自分で聴いてみるとぶっきら棒で横柄で驚きました。悩みに悩んでやっと受話器を持った相手に対し思いやりのあるやさしい言葉かけで少しでも心が癒されホッとできる間が持てることが大切です。微力でも学習会での学びとともにTEL相談も続けることで、より良く聴くことができるように努力し続けて行こうと思います。
HKさん

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20周年に寄せて
長男が中学生になって間もなく不登校になり、これと言った原因も見当たらず、私のせいなのではと自分を責めていた時、新聞にカウンセリング研究会の受講生募集の小さな記事を見つけ、自分を見つめ直すために思い切って受講しました。ところが「カウンセリング」の勉強はとても難しくて、ついていけない自分がいて、何回やめようと思ったかわかりません。それと自分探しも難航していてなかなか自分と向き合い、自分を見つめ直すことが出来なくて、もう少し頑張ってみたら何かが見えてくるかも知れないと思い、一年、また一年と頑張り、気がつくと六年が過ぎていました。受講生のロールプレイの発表後の先生のコメントに時々小さな気づきがあり、どこに居ても自分の居場所を見つけられなくて、自分を否定してしまいがちな私も、ここは自分が自分のままで居てもいい場所で、自分は「こう思う」「こう感じる」ということも素直に表現してもいい場所であることなど・・・ホットすることがあります。そしてそういう中にいると、ふっと見えなかったことが見えてきたり、自分にとって大切な気づきがあったりします。
次から次と起こる家庭内の問題に翻弄され、自分を見失ってしまうこともありますが、そんな時も、自分の思いは置いておいて、子供の現状を受け入れてこれたのもこの会で学んでいたからだと思います。微々たる歩みで時間はかかっていますが、少しずつ自分を受け入れながら、時には反省しながら、自分探しの旅はまだまだ続いています。
ANさん

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ああ、カウンセリング
カウンセリングの勉強に通い、どれだけ分かったのだろうかと疑問に思いながら、それでも続けているのは、一年目に習った仲間とのつながり、それとも年寄りの楽しみ、と思い一年余経った。
この会が二十年経つということを聞いたとき、びっくりすると同時に、レベルアップのために、もっと厳しくやって貰えたらという気持ちと今のままだからこそ続けて来れたのだろうと思い今日も通っている。
人の話の聴くことの難しさばかり考えていたら疲れ、ふと処分しきれなくて残っていた漱石の本を何気なく読んだら、いつの間にかこれまで気がつかなかった小説の面白さに熱中している自分があった。
小説は人間のわずらわしいことにはかかわりたくないときに息抜きになる。でも一人では生きては行けない、そんな時人と話したくなる。だけど、話す人がいない。カウンセリング研究会は二十年続けてきて、そしてどこが変わったのだろうか。もっと外で気軽に話せるところに広がってくれればと思う。
KOさん

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私の「パラドックス」体験
カウンセリングを学習して10年近く、その間ボランティアを含む実践も経験してきました。カウンセリングに関する初歩的な資格は取得してありますが、現在は上位資格や特定の分野の専門性の必要も感じているところです。
最近、ようやく上位資格受験のための要件が満たされたので受験申込手続きなどしていているうち、次第に緊張や焦りを感じてきました。そんな折、カウンセリングの学習仲間と偶然出会い、雑談する中で結果的に受験を諦めることになりました。その途端、不安から解放され、「なんだ、これが本当の私か?」と受け入れ、失望ではなく楽しい気分に変わりました。ところが、帰宅すると、それまで溜まっていた家事や懸案事項を一気に片付けるなど意欲が湧き、試験も受けようという気持ちに変わってしまいました。課題が先送りされただけではあるけれど、今はゆったりとした気分で学習をしています。結局私の場合、試験への準備不足に気づいても何とか要領よくやろうとして葛藤していたと思います。(最初は自分の意思で受験しようとしていたのが、いつの間にか強迫的になってしまった)それを認めたから逆説的に主体性が出てきたのでしょうか。その前は心理的安定を得るため認知を変えようと、「試験に落ちたらどうなるのだ」、「誰も困りはしない」(実際困らない)などと考え、それなりの効果はありましたが鮮やかな解放感はありませんでした。また、一人で考えていたら、この場合「諦める」?発想はなかったと感じています。
このような体験は誰にでもあることであり、今回の私の体験も人生の重要な節目の場面ではありませんでしたが、心の動きとしては大きなものがありました。
MTさん

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私とカウンセリング
私がカウンセリングを学ぶキッカケとなったのは、一本の電話からでした。電話での勧誘はほとんどしないという方からでしたが、なぜか気が合ったというか、自分にタイムリーだったのだと思います。
同じ環境にあっても心をしっかり持てる人、潰れてしまう人があります。職場の中で、精神的に疲れてしまった人を何人か見てきました。人の心の中をはかることも、関わり方も分からず、自分の無力さを感じていました。
最初は人の為に何か出来ないのか? と思って勉強し始めたのですが、学んでいくうちに自分自身に役立っていることに気付きました。私自身定年退職し、生活環境が変わり老い支度に入ろうとしている今、カウンセリングを勉強している事で心の安らぎを感じているのだと思っています。
勉強会で学ぶ理論や技法は難しいけれど、学ぶことは楽しいです。また、テレビドラマを見ていると参考になることが多々あります。人と人を繋ぐ、相手の気持ちを引き出す、ちょっとした場面でのやりとりが私の心にグーッとくる。これはカウンセリングを学んでいるからだと思えます。
この研究会では2年目ですが、ここで出会えた先生や仲間の中では、自分を素直に出せる不思議なものがあります。これからも勉強を続けていきたいと思います。
RKさん

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「カウンセリング研究会」と出会って
今年の2月頃から、私は好んでゆらぎのα波音楽を聴いていた。いつもは、見過ごしているであろう記事からある日、4月からの「カウンセリング研究会」の募集を知った。
私は、何かを求めているらしかった。当時の私は、7〜13Hzに調整されているシューマン・レゾナンスやメンタル・デトックス、サブリミナル活性化効果など、ましてや自律機能バランスやストレスとは無関係で意識せずただ、波長が合う程度でBGMとして聴いていた。つまり、落ちついてリラックスでき自分の好きなくつろぎの時間のひとつだった。
カウンセリングの未知の世界に入って行く中で、初めて出会った人と様々な課題を共にこなして行く。視覚から入り、無意識なうちに様々な深さの認知過程を「みる」ことから出発している。目だけに限らず、思考・判断・評価・仮定・推測・洞察・試みなど、あらゆる角度のまなざしから、知ろうと、理解しようと、共感しようとする。
カウンセリングを学びながら自らの心の動きも感じられる。
6ヵ月間が過ぎようとする中、フロイト派、ユング派、ロジャーズ派また、行動・森田・家族・論理・ゲシュタルト療法などのアプローチがあるらしい。
ロジャーズについて少し学んでみたい。そして哲学者のマルチン・ブーバーについても。
毎回の講座にリセットした自分で臨む私は、今日の課題にチャレンジする。先入観を抱かず、なるべく自分らしく自然な方法で。
一年間の旅人に終止符を打つ頃、私の大きなザックは何色になっているのだろう? 沢山の「心のポケット」が付いていることを期待し願いながら。
YWさん

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カウンセリング研究会、受講から半年
受講を始めて半年、演習にて、話し手の硬い顔が、作り笑いで無いステキな笑顔に変わった時、例えようもなく嬉しかった。
しかし、話し手に援助的に関わる為の尋ねかたをしようとして、少々つまずく。話し手の心が見えたと思った時、『ここだ。あなたの言いたい事は、こうでしょう』と勝手に決め付けてしまい、真ん中にストレートに入ってしまった。廻りをやさしく撫でてあげるだけで良かったのに。自分は、おごっていた。
人は、自分で解決できる力を持っている。私の気持ちで、私の言葉で、方向を変えさせては、いけない。話し手を解かろうとする事は、聴き手が素朴で、自然体であり、又、聴き手も一緒に変化して行く事だと学びました。
演習する度、心が揺れます。でも、次回はあの人とあの人とも話をしてみたい。どんな話を聞かせてくれるかなと、楽しみに教室に向かってる自分に気づき始めました。
EMさん

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